落ち込んだときに元気がでる高杉晋作の名言6選(前編)
高杉晋作は過激とすら言っていいフィクションのような29年の人生を駆け抜けました。
その中で残した名言も、ほかの歴史上の人物とは一味違う心に突き刺さるような言葉を残しています。
有名な言葉に
「おもしろきこともなき世をおもしろく」
(どうせつまらなくてしょうもない世界を、自分の実力と工夫と行動でおもしろくせよ)
という病床の高杉晋作がなくなる数か月前に詠んだ句があります。高杉晋作の辞世の句(世を去る時に言う言葉)と一般にいわれています。
これも、なかなか心に突き刺ささります。この他にも心に突き刺さる高杉晋作の名言を紹介していきます。
まずは29年の人生を駆け抜けた高杉晋作の生涯を簡単に解説します。
高杉晋作は長州の身分の高い武士の家に生まれました。多くの幕末氏の志士を育てた吉田松陰の松下村塾に入ります。高杉晋作は吉田松陰に私淑(尊敬する人に直接には教えが受けられないが、その人を模範として慕い、学ぶこと。)するようになります。
そして、高杉晋作は1862年に幕府使節団に加わり、清に渡航しました。そこで高杉晋作が見たものはアヘン戦争で敗北し欧米列強に植民地化され支配されている清の姿でした。
高杉杉新作の強烈な攘夷(他国を排除する)意識、戦わねば日本も滅びるという思いが、このときにできたのかもしれません。
そして、以前より尊王(天皇を敬うこと)思想の強かった長州藩を攘夷思想に染め上げる運動を桂小五郎(木戸孝允)や久坂玄瑞と展開します。
しかし、下関戦争で聴衆は欧米列強4か国に惨敗し、その力の差を思い知ります。
高杉晋作は攘夷のためには進んだ武器、兵術理論が必要だと考え、それを実現した奇兵隊を創設します。
高杉晋作は何度も、普通なら資材もありえる脱藩を繰り返します。しかし、藩主との関係が良好であったため、謹慎程度で処分が済んでしまいます。
第二次長州征伐では長州藩の海軍総督として、上陸を仕掛けようとする幕府軍の軍拡をかく乱する奇襲を仕掛けます。そして、長州藩は幕府を撃退することに成功するのです。幕府の権威が崩れ落ちる歴史の転換点となる出来事でした。
その後肺結核を病み、大政奉還の前に29歳の短くも激しい生涯を閉じました。
名言1
苦しいなんて言うのはダサい事、何があっても言わないぜ!
高杉晋作は
「苦しいという言葉だけはどんなことがあっても言わないでおこうじゃないか」
という言葉を残しています。苦しいことを苦しいなんて言わないというもの、やせ我慢のように見えます。
逆に言えば、苦しいことを苦しいと言えるのは、楽といえば楽です。それを言えないと立場であったのが、高杉晋作であったのでしょう。
周りには彼を頼りにする同士がおり、部下がいます。彼が苦境を口にすればその動揺は大きく広く広がっていきます。
人を率いる人物である人、責任をもって人をまとめてプロジェクトを進めていくサラリーマンにも通じる言葉ではないでしょうか。
名言2
苦労したっていい、だが苦労する甲斐がないといけない
高杉晋作は
「苦労する身は厭わねど、苦労し甲斐のあるように」
という言葉を残しているように、別に苦労が好きなわけではないのです。
苦労しても良いけれど、その苦労に見合う価値がなければならないという考えを持っていたわけです。そういった意味の名言ですね。実際にただ苦労だけを強いる、我慢するというだけでは、人間どこかで壊れますし、人の上に立つものが苦労を人に強いる場合も、そこに意味があるから苦労をかけることができるわけです。
今にも通じる名言ではないかと思います。本当に苦労するなら甲斐のある苦労をしたいものです。
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